『古代天皇はなぜ殺されたのか』 八木荘司 (角川書店)

 先週、奈良で垂仁天皇陵と開化天皇陵を見て思い出した『古代天皇はなぜ殺されたのか』。
 十数年ぶりに読んでみました。

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 殺された古代天皇といっても、文字通り暗殺された崇峻天皇や安康天皇のことではありません。
 日本書紀や古事記に載っているけれど、実在を否定されている天皇を指しています。
 神武天皇の始まり、第二代~第九代までのいわゆる「欠史八代」。
 景行、成務、仲哀天皇に神功皇后。

 こうして歴史から抹殺された天皇は、古事記、日本書紀に記録されている初代から十四代までのうち、じつに十一人ないし十二人にのぼる。実在がほぼみとめられているのは、前述したとおり崇神、垂仁天皇の二人だけという、さんたんたるありさまになっている。(P13)

 垂仁天皇の実在が認められていたのはちょっと意外。
 とはいえ、これは著者の考えなので、どこまで一般的に通るのか分かりませんが・・・。
 ちなみに、Wikipediaには次のように記載されています。

実在性
 『日本書紀』、『古事記』に歴史的事実と認められる伝承は少ない。
 事績は総じて起源譚の性格が強いため史実性を疑問視する説もあったが、
 近年においては実在を認めることも多い。
生年、立太子年
 『日本書紀』の垂仁天皇即位前紀によると垂仁天皇は
 崇神天皇29年に誕生し24才で皇太子になったとある。つまり立太子年は崇神天皇53年である。
 ところが崇神天皇元年二月条では、これより前に御間城姫が垂仁天皇を生んだとある。
 また崇神天皇48年に垂仁天皇が立太子されたとある。
 つまり皇太子になったのは48才以上でのことである。
 これらは明らかに矛盾する記述となっており、崇神紀と垂仁紀で依拠した資料が異なると推察される。


 著者の主張は、古代天皇抹殺の背景にあるのは古事記・日本書紀の否定で、戦前の皇国史観を否定するあまり、古事記・日本書紀と反対の説を唱えるのが古代史学界の主流になったのではないかというもの。
 騎馬民族説などはその典型かもしれません。
 だからといって古事記・日本書紀の記述をどこまで肯定出来るのかは分かりませんが・・・。

 下は62-63ページに載っている、「神武天皇と欠史八代の宮殿」の図。
 「春日(9代)」とあるのは、開化天皇の宮で、初めて現在の奈良市内に移っています。
 奈良盆地の北部から正妃を迎えるのは、第八代・孝元天皇が初めて――というのが関連しているようです。
 「欠史八代」といっても、まったくの虚構ではなく、何かしらの事実を反映しているのでしょう。
 クレオパトラの法則の妥当性は不明です。。

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 もう一つ、72-73ページに載っている「魏の年号入り銅鏡と女王国推定地」の図。
 正始元年鏡としてあげられている古墳の場所は、兵庫県豊岡市・山口県周南市・群馬県高崎市。
 豊岡市と高崎市はよいとして、問題は周南市。
 どう見てもこの地図は広島県までしか入っていなくて・・・あまりに雑ですね。
 確かめていませんが、ほかの図も心配になります。。

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序章 古代天皇はなぜ殺されたのか
第1章 神武の復活
第2章 邪馬台国と大和
第3章 崇神天皇の虚像と実像
第4章 国家統一へのドラマ
第5章 好太王碑の証言
第6章 「天皇一家急死」のなぞ
終章 古代史に新たな光を
     (平成16年9月30日初版発行 平成17年1月10日再版発行)

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