『つわものの賦』 永井路子 (文春文庫)

 一週間前にエントリーした『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』。
 実朝暗殺についての記述で、102ページに永井路子の名前が出てきました。

 公暁の乳母夫三浦義村を黒幕とみる作家永井路子氏の説もある。公暁の門弟駒若丸は義村の子、義村自身はこの日に限って姿をみせていない。永井氏は、実朝・義時の殺害を公暁に任せ、義村は北条氏の小町邸を襲う「大勝負」に出ようとしたのではないかとする。しかし、これを察知した義時が小町邸に戻ったため、公暁を切り、身を守る選択をしたというのである。魅力的な説であるが、『吾妻鏡』の義時に関する記述を論拠にした点に難がある。義時は小町邸に戻っていないのである。また、義村の姿がこの日みえないのは、前年の直衣始の儀で長江明義とトラブルを起こし、右大臣拝賀のメンバーから外されたからだと考える。和田合戦のような北条氏を潰す絶好の機会においてすら義時に味方した義村である。右大臣拝賀の儀で「大勝負」に出るとは考えにくい。三浦義村黒幕説にも無理がある。雪の日の惨劇は、追いつめられた公暁のほぼ単独の犯行と考えるしかない。

 主要参考文献にあげられていた永井路子の著書は、『つわものの賦』。
 ――ということで、先週帰省した時に持ち帰りました。

 実朝暗殺についての記載は第十章。
 タイトルは雪の日の惨劇――って、やはりこうなるんですね。
 『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』には次の記述があります。

 かくして建保七年(一二一九)一月二十七日、実朝の右大臣拝賀の日が来た。日中の晴天が嘘のように夜には雪が降り、六十センチ余りも積もった。この日の雪の日の惨劇を伝える史料には『愚管抄』『吾妻鏡』『六代勝事記』『承久記』などがあるが、現場に居合わせた公卿・殿上人の情報をもとに、二年ほどのちに慈円が記した『愚管抄』が最も信頼できる。(P100)

 『愚管抄』に重きをおく坂井孝一と『吾妻鏡』に重きをおく永井路子。
 重きをおく史料が違えば、解釈が違ってくるのは当然です。
 書くまでもなく、どれも読んだことがない私にはまるで判断出来ず・・・。
 直前に読んだ本の影響が大きくなりますね。。

 それより気になったのは、六十センチ余りも積もった雪
 2014年2月のような――というか、それ以上の南岸低気圧でしょうか。

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 序章  嵐の中への出発 治承四年八月
 第一章 中世宣言 三浦義明の場合
 第二章 空白の意味するもの 上総広常の場合
 第三章 功名手柄 熊谷直実の場合
 第四章 東国ピラミッド 源平合戦の意味
 第五章 「忠誠」の組織者 梶原景時の場合
 第六章 大天狗論 東国対西国
 第七章 奥州国家の落日 征夷大将軍とは何か
 第八章 裾野で何が起ったか 曾我の仇討にひそむもの
 第九章 血ぬられた鎌倉 比企の乱をめぐって
 第十章 雪の日の惨劇 三浦義村の場合
 第十一章 承久の嵐 北条義時の場合
   あとがき
           (1983年7月25日第1刷)

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 ひとつ見つけてしまったのは、126ページ。
 以下の画像の左下のほう――。

画像

 (誤)それをしも讒言者というならば ⇒ (正)それをもし讒言者というならば  ですね。。
 4月の『炎環』から始まり、永井路子は今年だけで22冊!
 それでも、『相模のもののふたち 中世史を歩く』や『源頼朝の世界』など、鎌倉ものが残っています。
 再読の時のために、25ページの「東国の豪族たち」の地図を――。

 登場人物が多いので、この地図には何度も立ち返りました。
 現在の地名と重なる豪族が多い中、ちょっと違和感があったのは稲毛氏。
 下総・上総ではなく、武蔵なんですね。

画像

 Wikipediaをみると、さらっと一行だけ――。

   ちなみに、千葉氏系の稲毛氏も存在する。

 千葉氏をWikipediaで見てみましたが、記述の多さに圧倒されます。
 「稲毛氏」の文字はあるものの、リンクをたどると武蔵の稲毛氏に戻ってしまい・・・。
 謎を解決することは出来ず、宿題が残りました。。

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