『男たちへ フツウの男をフツウでない男にするための54章』 塩野七生 (文春文庫)

 年末の新聞広告に載った、塩野七生の新刊・『想いの軌跡』。
 真っ先に目に入ったのは、「日本の男たちのロリコン趣味は病理的というしかない」の部分。
 これについての感想は、このツイートと同じ。
 同様の記述が、塩野七生のエッセイ『男たちへ』か『再び男たちへ』のどちらかにあったはず・・・。
 探してみたところ、『男たちへ』の中の一章にありました。

 載っていたのは、<第40章 セクシーでない男についての考察>。
 <第23章 マザコン礼賛>の中と思っていたのですが、目次を見ての直感は外れでした。。
 54章もあると、目次を記すだけでも大変です・・・。

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第1章 頭の良い男について    第2章 イタリア男、イギリス男に圧倒されるの巻
第3章 古き皮袋に新しき酒を   第4章 再び、古き皮袋に新しき酒を   第5章 嘘の効用について
第6章 再び、嘘の効用について  第7章 「同じ言語で」語りあえることの尊さについて
第8章 装うことの素晴らしさ     第9章 「絵」になるということ   第10章 クロウトの意見
第11章 女には何を贈るか     第12章 人前で泣く男について  第13章 おしゃれな男について
第14章 男女不平等のすすめ    第15章 ひげの種々相について  第16章 ステキな男
第17章 殺し文句についての考察  第18章 女の性について    第19章 オール若者に告ぐ
第20章 男の色気について(その一)  第21章 男の色気について(その二)
第22章 男の色気について(その三)  第23章 マザコン礼賛  第24章 男のロマンなるものについて
第25章 浮気弁護論     第26章 つつましやかな忠告二つ  第27章 女とハンドバッグ
第28章 インテリ男はなぜセクシーでないか  第29章 嫉妬と羨望  第30章 食べ方について
第31章 不幸な男(その一)    第32章 不幸な男(その二)    第33章 不幸な男(その三)
第34章 執事という種族について  第35章 『風とともに去りぬ』に見る男の形
第36章 ウィンザー公夫人の宝石  第37章 銀器をめぐるお話
第38章 仕事は生きがい、子供は命、男は?  第39章 スタイルの有無について
第40章 セクシーでない男についての考察    第41章 男と女の関係  
第42章 働きバチなる概念について  第43章 男が上手に年をとるために  
第44章 成功する男について    第45章 地中海的中庸について  第46章 自殺の復権について  
第47章 外国語を話すこと、など  第48章 外国人と上手くケンカする法、教えます
第49章 あなたはパトロンになれますか?   第50章 肉体賛歌   第51章 続・肉体賛歌
第52章 イタリアの職人たち    第53章 わが心の男    第54章 腹が出てきてはもうおしまいか
                       (1993年2月10日第1刷 1993年12月15日第5刷)

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 一章7,8ページのエッセイなので、眠れない時、順不同に読むのに適しています。
 何度も読んだ章もあれば、そうでないのもあったりして・・・。

 先日、眠れない夜にページを開いたのは、<第50章 肉体賛歌>。
 次の一文に驚きました。

 モーツァルトのことを描いた映画『アマデウス』のイタリア語版を見ていたら、モーツァルトの才能に嫉妬するサリエリが、最初にモーツァルトの音楽を聴いたとき、驚嘆のあまり思わず発する賛辞を、
「スブリーメ!」
 と訳していたのを思い出す。 (P385)


 驚いた理由は、読み終わったばかりの『物質のすべては光』で目にした、サリエリの名前があったこと。
 この本の一節のタイトルは、「複雑性を支える完全性――サリエリ、ヨーゼフ二世、モーツァルト」で、少々長くなりますが、引用すると・・・。

 わたしは完全性とはどういう意味かを、凡庸なことで名高い、アントニオ・サリエリから学んだ。わたしの好きな映画のひとつ、『アマデウス』のなかの、わたしが好きなシーンのひとつで、サリエリは、驚きに目を見張りながらモーツァルトの手書き楽譜を見て、「音符をひとつ動かせば損なわれる。フレーズをひとついじれば構造全体が崩壊する」と言う。
 この言葉のなかに、サリエリは完全性の本質を捉えている。彼の二つの文章は、理論物理学を含むさまざまな分野で、完全性というときわたしたちが何を意味しているかを厳密に定義している。完全な定義と呼んでいいかもしれない。
 理論は、それにどんな変更を加えても元より悪くなって初めて、完全なものと言えるようになる。これはすなわち、先ほどのサリエリの最初の文章を音楽から物理学に翻訳したものである。そして、これは核心を突いている。だが、サリエリの天才が本当に現われるのは二つめの文章だ。理論は、その全体を損なうことなく、大きな変更を加えることができなくなったとき――つまり、理論を大きく変更すれば意味をなさなくなったとき――、隅々まで完全になる。(P258-259)


 サリエリ、モーツァルト、アマデウス・・・。
 文脈はまったく違いますが、ここまで重なるとは・・・。
 
 別の眠れない夜、意外とちゃんと読んでいなかった第1章を読んで、またまた驚きました。
 驚いた理由は、和田勉・丹波哲郎・向田邦子の組み合わせで――ではなく、冒頭の一文。

 むかし、と言っても三十年足らずしか昔でない頃の話だが、丸尾長顕という名の粋人がいた。当時、この人はストリップ・ショウが売り物の日劇ミュージック・ホールの親玉かなにかをやっており、そのためか女に関しては専門家と思われていて、日劇ミュージック・ホールなどには行ったことのない、つまり典型的な東京山の手育ちの娘であった私でさえ、この人の名は知っていた。(P13)

 初めて読んだ時に、もっと驚いたはずなのは、山の手育ちの娘であった私の箇所。
 どういうことかというと・・・、以下は6年前に書いた『サイレント・マイノリティ』の記事からの引用――。

 13、4年前に買った、初めての塩野七生の本です。『サイレント・マイノリティ』というタイトルに興味をひかれて買ったのです。当時は著者の名前を知りませんでしたし、硬質な文体から男性であることを疑いもしませんでした。何かのきっかけで女性であることを知った時の驚きは忘れません。・・・いや、「何かのきっかけ」と言ってる時点ですでに忘れているわけですが・・・。

 「何かのきっかけ」をようやく思い出しました。
 要するに、塩野七生の本を初めて読んだ20年前、著者は男性だと信じて疑わなかったわけで・・・。
 それが、いきなり山の手育ちの娘であった私って! 驚かないほうがどうかしています。。

 あれから――。
 『ローマ人の物語』を含め、文庫本を50冊ほど読んだわけで、塩野七生の文章にはだいぶ慣れてきました。
 古代ローマのことなど、まったく知らなかったことを知り・・・。
 同じエッセイでも、あらためて読んでみると、サリエリのような新たな発見があるかもしれません。
 
 眠れない夜に・・・さっそく今晩、ですね。。

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