『小説吉田学校 第八部 保守回生』 戸川猪佐武 (角川文庫)

 『小説吉田学校』の第八部を読み終わったのは、一週間ほど前・・・ですが、なかなか記事を書く時間がなくて、2月になってしまいました。
 最後の第八部ということで、巻末には著者のあとがきが載っています。一部引用すると――。

 ただし小説という形をとったために、一部のひとびとから「どこまでがフィクションであり、どこまでがノンフィクションなのか」という質問をしばしば受けることがある。
 そういう場合、私の答えは決まっている。「必ずしも事実でない部分もあるが、すべて真実である」と。
     (中略)
 したがって私の場合は触れない部分もあれば、省略、割愛する場面もある。だからといってでてきた結論という事実を変えてはいない。そこに至るまでの議論のポイント、それにたずさわった人びとの人間像などは浮かびあがらせたつもりである。その意味において、私は小説という形をとってはいるば、書いたことは真実であるというゆえんである。(P376)


 「必ずしも事実でない部分もある」の意味するのは、「触れない部分もあれば、省略、割愛する場面もある」という点。レポートではないので、これは認めるほかないでしょう。
 でも、それでは済まされない誤りや矛盾がいくつか見られます。
 慣れてきたせいか(?)、かなり多く発見してしまいました。

 大平内閣の時代を描いた(第七部~)第八部で、押さえておかなければいけないのは、次の2点。

  1)1978年11月26日の自民党総裁選で、大平幹事長が福田総裁を破り、新総裁に。
             ・自由民主党総裁選(Wikipedia)
  2)1979年10月7日の衆議院議員総選挙で、自民党は過半数を獲得できず。
    主流派と反主流派の対立が激化し、四十日抗争に。
             ・衆議院議員総選挙

 自民党総裁選が行われたのは1978(昭和53)年、衆議院総選挙が行われたのは1979(昭和54)年です。
 ところが・・・。

 そのような状況を脱却しようと、大平が昨五十三年に打った解散・総選挙は裏目に出て、自民党は過半数を制することができなかった。(P8)

 解散・総選挙が行われたのは昭和五十四。
 しかも、これは昭和五十五年三月を描いたものなので、前の年は当然、五十四年。
 「昨五十三年」というのは、二重の誤りですね。

 福田赳夫の認識について述べた箇所――。

 それに、五十四年秋の総裁公選で、現職の総理、総裁であった自分を打ち破った大平その人と、その大平を支援した田中とに対して、いまなお、ある種の意趣は残存しているものの、三木が持っているような徹底した田中敵視は持っていない。(P31)

 さらに、こんな記述も――。

 石川全県一区では、田中派の奥田敬和は、五十四年秋の総裁公選にさいしては、懸命に、田中角栄の盟友大平のために票を集めた一人だった。(P283)

 さらに、さらに、田中角栄の回想では――。

 ――四十七年、おれが勝利を得たときの総裁公選といい、五十四年に大平が福田を倒したときの公選といい、あとに大きな派閥の対立と抗争を残した。

 ほかにも、何ヵ所か同様の表現があったような・・・。
 どうやら、総裁公選と衆議院議員総選挙の時期がごちゃまぜになっているようです。

 こんなのもありました。

 党本部に乗り込んできた再生協側の河本、安倍、中川の三人の代表は、欠席組の全員公認を望んでいたし、これを迎え入れる西村副総裁、桜内幹事長、鈴木総務会長もそれに応ずるつもりでいた。(P231)

 六者会談は河本・安倍・中川+西村・桜内・鈴木であると、明確に書かれています。ところが・・・。

 六者会談が終わって、桜内と河本、安倍、三木が、記者団と共同会見をして、合意内容を発表(P232)

 三木元首相はどこから出てきたのか? 北海のヒグマはどこへ消えたのか・・・?

 大平首相が小坂徳三郎からアメリカ訪問の報告を受ける場面では――。

 「ご苦労さんだったね。何日間行っていたことになるのかな?」
 小坂は、日米協会の招待で、この二十四日に渡米したのだった。
 「ちょうど十日間です。いろいろな人に会いまして、けっこう勉強になりましたよ」(P103)


 これだけなら問題ありませんが、問題は報告を受けたのが、四月二十八日とされていること。
 二十四日に渡米して、十日経ったら、当然、五月になっているはずですが・・・。

 細かいところでは、こんな誤りも・・・。

 衆議院選挙が参議院選よりも二日遅れてスタートを切ったのは、六月二日である。(P246)

 参議院選がスタートしたのは五月三十日なので、正しくは「三日遅れて」、です、
 さらに・・・。

 この二つのものが発表をみたこの九日の夜、党本部に西村副総裁、桜内幹事長、鈴木総務会長、伊東官房長官たちが集まって、首脳会談をひらいた。
 それが終わって、鈴木が世田谷区経堂の自邸に帰ったところに多人数の記者たちが、おしかけてきた。(P263)


 この取材への鈴木総務会長の発言が新聞に載るわけですが・・・。

 この鈴木善幸の談話は、「大平首相に近い自民党主流派幹部」ということで、鈴木の名を伏せながら、翌二十一日の朝刊に掲載された。その新聞は、大平も虎の門病院のベッドの上で、眼を通すことになった。大平は、その「幹部なるもの」が、鈴木であることをすぐに悟った。(P266)

 九日夜の談話が載るとしたら、当然、十日の長官のはずですが・・・。
 何より、大平首相が亡くなったのは六月十二日の朝。
 二十一日の長官に目を通すことなど、出来るはずがありません。。

 大平首相の内閣・自民党合同葬儀が、東京・北の丸公園にある日本武道館で執り行われたのは、雨模様の七月九日の午後であった。(P350)

 こういう記述があると、確かめたくなってしまいます。
 気象庁のHPを見ると、10時までの前1時間雨量が25ミリで、8時から11時までの3時間雨量が50ミリ近くに達していました。
 下はNCEP再解析データで作成した天気図。
 500hPaでは、北海道の西~日本海中部にトラフがのびていて、地上では北海道の東の低気圧からのびる寒冷前線が関東地方を通過した――ように見えます。これが午前中の強雨をもたらしたのでしょう。

 ●1980年7月9日9時   左:地上解析図(気圧) 右:500hPa解析図(ジオポテンシャル高度)
画像

 雨は午後になると弱まりましたが、15時頃までは時間2ミリ前後で降っていました。
 とすると、「雨模様の午後」という表現は不適当なのでは・・・?
 「雨模様」について、goo辞書には次のようにあります。

 1 雨の降りそうな空の様子。あまもよう。「―の雲」
 2 雨が降っているらしいようす。あまもよう。「山間部は―らしい」
 [補説]1が本来の意味。2は新しい意味で、近年はさらに「現に雨が降っている」意にも使う。
     文化庁が発表した平成15年度「国語に関する世論調査」では、
     「外は雨模様だ」を、「雨が降りそうな様子」の意味で使う人が38.0パーセント、
     「小雨が降ったりやんだりしている様子」の意味で使う人が45.2パーセントという結果が出ている。


 まあ、一般的には、「現に雨が降っている」で使う人が多いのでしょう。
 自分も『NHK気象ハンドブック』を持っていなければ、誤って使っていたと思います。
 ・・・というか、「雨模様」の言葉自体、日常会話で使わないか・・・。

 誤りだけでなく、思わぬ発見(!?)もありました。

 野党総体としては、自民党に対する攻め道具として、浜田の証人喚問をとことんまで利用していくという態度は強かった。その間に、与野党間の奇妙なトラブルが起こった。金丸が例によって、ざっくばらんな調子で、
 「証人喚問など、あまりしつこくいってくるな。野党のなかにも、不審なものがあるという意見が、わが党内にもあるぞ」といったことに端を発している。このあと、社会党の田辺国体委員長が、
 「不審なものとはだれのことか。野党は疑心暗鬼になっている」と、嚙みついた。
 すると、金丸はけろりとした表情でこう答えた。
 「ロッキード事件と関係のない浜田君を、航特委で喚問するのはおかしいよ。わが党内にはだね、『宮本(共産党委員長)は人殺しだ。不審な者は呼べ』などという声もある」と答えた。こんどは、共産党の松本善明国体委員長が顔色を変えた。(P95-96)


 「宮本顕治人殺し」発言は、衆院予算委員長だった(!)ハマコーのが有名ですが、こんなのもあったんですね。しかも、ハマコーの証人喚問を巡ってのやりとりは、ちょっと因縁めいた話ではあります。

-------------------------------------------------------------------
ラスベガス――疑惑の二十万ドル
参議院選挙――続く低落傾向
実力者会談――同床の異夢
党紀委員会――議員辞職への径
訪米前夜――総理の憂鬱
日米首脳会談――強まる対日要請
密談――分裂の危機
三党首会談――揺れる民社党
不信任案可決――五月十六日午後五時
公認問題――激突する派閥
党再生協議会――進まぬ選挙対策
衆参同時選挙――総理"病に倒る"
総理死す――党回生の予兆
自民圧勝――中曾根・河本の周辺
後継者――浮上するダーク・ホース
新総裁誕生――目白の選択
七月九日――系譜の終焉
   あとがき
           (昭和56年8月10日初版発行 昭和57年7月30日6版発行)

-------------------------------------------------------------------

 昭和55年6月、大平正芳死す。
 戦後はじめての現職首相の死は、衆参同時選挙をたたかう自民党の連帯意識をたかめ、"弔い合戦"を合い言葉に、予想をはるかにうわまわる大勝利をもたらした。
 しめやかに営まれる自民党葬の舞台裏では、後継者選びの思惑が渦まいていた。マスコミに登場する有力候補をよそに、"目白の闇将軍"の肚は決まっていた。派閥力学の加減乗除は、予想もしないダークホースを浮上させた。


 このダークホースが鈴木善幸。岩手1区選出でした。
 自分が中二の時、鈴木首相が地元を回るということで、日の丸の小旗を持たされ、首相の車が通過する少しの時間だけ、みんなで国道沿いに出たことがありました。授業時間だったような気がしますが、地元の総理なので、学校が特別な対応をしたのでしょう。
 そんな総理が、直後に(1ヵ月か2ヵ月後、)辞任したのは、子供心にも驚きでした。
 いろいろ「大人の事情」があったのかもしれませんが、そもそも総理になったこと自体が「大人の事情」だったようで・・・。これでも何とかなっていた当時の日本は、平和だっということなのでしょう。

 第八部まで読み終えましたが、実は第六部はまだ・・・。行方不明なのです。。
 これを機に、本棚を整理しないといけませんね。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 0

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック