『コンスタンティノープルの陥落』 塩野七生 (新潮文庫)

 『ローマ人の物語 43』を読み終え、次は――ということで読んでみたのが、本棚に眠っていた『コンスタンティノープルの陥落』。
 買ったのは10年以上前なのですが、数ページしか読んでいなかったはず。。

 ページを開き、まず、冒頭にあった勢力分布図にびっくり。
 ユスティニアヌス帝時代には地中海沿岸のほとんどがビザンチン帝国の勢力範囲だったのに、どんどん削り取られ、1402年の図を見ると、コンスタンティノープル周辺とペロポネソス半島の一部だけ。ヨーロッパ側もアジア側もトルコに囲まれ、これではとても「帝国」とはいえません。そして、とどめを刺したのは、当然、トルコ・・・。

 このあたりの詳しい事情はまったく知らなかったのですが、ビザンチン帝国・トルコという「当事者」以外にも、ヴェネツィアやジェノヴァなどがどのように関わったのかや、キリスト教vsイスラム教の対立軸だけでなく、ギリシア正教とカトリックの確執がどのようなものだったのか。それぞれの立場の視点で、分かりやすく描かれていました。
 ヨーロッパとアジアが交わるトルコ・・・ということは、東ローマ帝国にも同じことが言えるわけですが、『ローマ人の物語』で最後に描かれた六世紀から、本書で描かれている十五世紀までの間にどのような経過をたどったのか、後で調べてみたいと思います。

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第一章 二人の主人公
         コンスタンティノープルの都  スルタン・マホメッド二世
第二章 現場証人たち
第三章 人みな、コンスタンティノープルへ
第四章 攻防始まる
第五章 海戦の勝利
第六章 金角湾の勝利
第七章 最後の努力
第八章 崩れゆく人々
第九章 コンスタンティノープル最後の日
第十章 エピローグ
          解説 森本哲郎
               (平成3年4月25日発行 平成9年3月10日19刷)

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 ビザンチン帝国の首都だったコンスタンティノープルはトルコの首都となり、同じタイミングで都市名もイスタンブールに変わりました・・・と思っていたのですが、そんな単純なものではないようで、Wikipediaには次のように書かれています。

   正式名称がイスタンブルに改められ、国際的にもコンスタンティノープルではなく
   イスタンブルと呼ばれるようになるのは、トルコ革命後の1930年のことである。


 イスタンブールといえば、やはり『飛んでイスタンブール』でしょうか・・・。   (Wikipedia

 YouTubeに動画がたくさん(?)ありました。

 まずは、1998年。     →  庄野真代 - 飛んでイスタンブール 1978

 たぶん、2008年・・・。   →  庄野真代 飛んでイスタンブール

 そして、2010年。     →  20100704庄野真代銀座とんでイスタンブール

 もう一つ――。      →   民主党公認候補 庄野真代

 どうしてこうなった? 庄野真代・・・。

 街頭「演説」になっていませんが・・・。民主党、というか、政界の人材難は深刻過ぎます。。

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