『残虐記』 桐野夏生 (新潮文庫)
自分は少女誘拐監禁事件の被害者だったという驚くべき手記を残して、作家が消えた。黒く汚れた男の爪、饐えた臭い、含んだ水の鉄錆の味。性と暴力の気配が満ちる密室で、少女が夜毎に育てた毒の夢と男の欲望とが交錯する。誰にも明かされない真実をめぐって少女に注がれた隠微な視線、幾重にも重なり合った虚構と現実の姿を、独創的なリアリズムを駆使して描出した傑作長編。
2000年に発覚した新潟県柏崎市の少女監禁事件をモチーフにした小説―――なのですが、あまりにその点ばかりが強調されると「関係者」の人はいたたまれないだろうし、「関係者」以外の人からは「そんなわけないだろう」と見当はずれのツッコミが入りそうです。
本書はもちろん、単なる「モデル小説」ではない。桐野氏はまったく正当にも、虚構的なリアリティは「現実」に拮抗しうる、という自らの信念を至るところで語っている。事件というものは常に何らかの臨界点で起こるものであり、その真相は当事者も含めて誰も知りえない。ただ事件を巡って重層的な想像力が喚起されることのみが興味深く、また恐ろしいのだ。それゆえ、この小説もまた、「モデル」を意識して読む必要なない。
『The Cool! 桐野夏生スペシャル』の中にある、斎藤環の小論<「関係の科学」としての桐野文学>の一節。文庫の解説も斎藤環で、タイトルは<『残虐記』の二つの謎>。この中にも同様の記述があります。ついでに、別の箇所から引用―――。
もしミステリーの本質が「見事な謎解き」にあるのなら、桐野夏生はミステリー作家ではあり得ない。しかし、もしミステリーが「魅力的な謎を創ること」であるのなら(私はそう信じるが)、桐野夏生は最高のミステリー作家である。ただし、桐野は謎を解かない。少なくとも、単一にして特権的な真実を読者に与えようとしない。与えることは所有することだ。彼女は与えず、ただ誘惑する。
(中略)謎がどんどん深まっていく過程こそが魅力的なのに、あなたはなんでそれを「解決」したがるのか、と。そう、ここでも桐野氏は筋を通す。物語の駆動原理として「関係」それも「性的関係」を選択した以上、それを「解決」すること、つまり「所有」することは、あらかじめ断念されるべきなのだ。「関係のリアル」は「謎」にこそ宿る。解決された謎の後に残されるのは「関係性の墓場」だけだ。そんな桐野作品に「解決」や「カタルシス」を求めようとする読者がいると聞いたが、もはや私には悪い冗談としか思われない。
『残虐記』では主人公の「毒の夢」が、いくつかのストーリーとして提示されています。ただ、それらは解決に向かってひとつの筋に収束していく、といったものではなく、真相はあくまでも謎のまま・・・。この構成は『柔らかな頬』を思い起こさせます(・・・ちょっと違うか!?)。解かれることがない謎―――、自分はこういうのにもカタルシスを感じます。
桐野作品に「解決」を求めるのは「悪い冗談」かもしれませんが、カタルシスを求めるのは「あり」でしょう。謎を解決する、物事を明快に割り切って結論を出す・・・だけでなく、謎を謎として楽しむカタルシスもあるはずです。
―――と主張したいのですが、自分がいうと「モラトリアム人間の言い訳でしょ?」で片付けられそうです。。。
2000年に発覚した新潟県柏崎市の少女監禁事件をモチーフにした小説―――なのですが、あまりにその点ばかりが強調されると「関係者」の人はいたたまれないだろうし、「関係者」以外の人からは「そんなわけないだろう」と見当はずれのツッコミが入りそうです。
本書はもちろん、単なる「モデル小説」ではない。桐野氏はまったく正当にも、虚構的なリアリティは「現実」に拮抗しうる、という自らの信念を至るところで語っている。事件というものは常に何らかの臨界点で起こるものであり、その真相は当事者も含めて誰も知りえない。ただ事件を巡って重層的な想像力が喚起されることのみが興味深く、また恐ろしいのだ。それゆえ、この小説もまた、「モデル」を意識して読む必要なない。
『The Cool! 桐野夏生スペシャル』の中にある、斎藤環の小論<「関係の科学」としての桐野文学>の一節。文庫の解説も斎藤環で、タイトルは<『残虐記』の二つの謎>。この中にも同様の記述があります。ついでに、別の箇所から引用―――。
もしミステリーの本質が「見事な謎解き」にあるのなら、桐野夏生はミステリー作家ではあり得ない。しかし、もしミステリーが「魅力的な謎を創ること」であるのなら(私はそう信じるが)、桐野夏生は最高のミステリー作家である。ただし、桐野は謎を解かない。少なくとも、単一にして特権的な真実を読者に与えようとしない。与えることは所有することだ。彼女は与えず、ただ誘惑する。
(中略)謎がどんどん深まっていく過程こそが魅力的なのに、あなたはなんでそれを「解決」したがるのか、と。そう、ここでも桐野氏は筋を通す。物語の駆動原理として「関係」それも「性的関係」を選択した以上、それを「解決」すること、つまり「所有」することは、あらかじめ断念されるべきなのだ。「関係のリアル」は「謎」にこそ宿る。解決された謎の後に残されるのは「関係性の墓場」だけだ。そんな桐野作品に「解決」や「カタルシス」を求めようとする読者がいると聞いたが、もはや私には悪い冗談としか思われない。
『残虐記』では主人公の「毒の夢」が、いくつかのストーリーとして提示されています。ただ、それらは解決に向かってひとつの筋に収束していく、といったものではなく、真相はあくまでも謎のまま・・・。この構成は『柔らかな頬』を思い起こさせます(・・・ちょっと違うか!?)。解かれることがない謎―――、自分はこういうのにもカタルシスを感じます。
桐野作品に「解決」を求めるのは「悪い冗談」かもしれませんが、カタルシスを求めるのは「あり」でしょう。謎を解決する、物事を明快に割り切って結論を出す・・・だけでなく、謎を謎として楽しむカタルシスもあるはずです。
―――と主張したいのですが、自分がいうと「モラトリアム人間の言い訳でしょ?」で片付けられそうです。。。
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